チラシの裏の覚書。

個人的なナレッジノートです.φ(..)

"稽古で傷だらけになった身体にベタ貼りした万金膏を学生仲間から冷やかされながら、来る日も来る日も天神真楊流の福田道場に通い続けた嘉納治五郎は、その甲斐あって道場内ではほとんど誰にも負けないくらいに腕を上げ..."

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稽古で傷だらけになった身体にベタ貼りした万金膏を学生仲間から冷やかされながら、来る日も来る日も天神真楊流の福田道場に通い続けた嘉納治五郎は、その甲斐あって道場内ではほとんど誰にも負けないくらいに腕を上げました。治五郎ほどではないにしろ、ほぼ毎日やって来る青木という者がいましたが、彼と乱取をしても格別難儀を感じることはありません。そんな治五郎でも、どうしても勝てない相手が1人だけいました。それが福島兼吉です。治五郎は福島のことを、自著の中で次のように紹介しています。

「この福田の道場に(中略)隔日位にくる人に魚河岸のさかな屋の主人で福島兼吉という人がおった。この人はなかなかの強力で、目方が二十何貫あり、すばらしく強いが、形が出来なかった」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)

理屈や形式よりも、実戦を重視するタイプだったようです。ところでこの福島兼吉という人物、只者ではありません。日本橋の魚河岸の親方で、その豪胆な人柄と腕っぷしの強さを表わすエピソードが残されています。
福島が、なにかのついでに吉原へ冷やかしに行ったことがありました。彼に登楼の意思はありませんでしたが、無理に引っ張りこまれそうになり、自慢の強力で振り切って飛び出しました。ところが、この時中から何者かが投げつけた茶碗が福島の額に当たり、こぶができてしまったのです。彼は憤然として、「覚えていろ」と捨て台詞を残して立ち去り、そのまま自宅へは帰らず、よそへ2、3泊して準備を整え、吉原へ復讐にやって来たのです。そこで、廓からも2人出て来て対抗しましたが、福島はやにわにこれを蹴倒し、手近にあった鴨居を引っぱずして、手当たり次第に辺りの物を叩き壊しました。力が強い上に柔術をやっているので、誰も近寄ることができません。そのうちに巡査が駆けつけて来ました。
巡査の2人や3人、もとより福島の敵ではなかったのですが、彼はにわかにかしこまって自ら手を後ろにまわし、「お上の縄にかかります」と言って、猫のようにおとなしくひかれていきました。警察で調べてみると、もともと悪いのは廓側であることがわかり、福島は結局20銭の罰金で放免になったそうです。

そんな福島兼吉の強力の前には、治五郎がいかに奮闘努力しても歯が立ちませんでした。そこで、治五郎は相撲の手でも覚えれば勝てるのではないかと考え、当時大学の寄宿舎の賄い(炊事係)に昔二段目の相撲取りだったという内山喜惣右衛門がいたので、彼についていろいろと相撲の手を習い、それを福島に試してみたのですが、どれもうまくかかりません。そのほかにもあれこれ工夫をしてみましたが、なかなか思うようにいきませんでした。考えあぐねた治五郎は、西洋の方には何かうまい手があるのではないかと思いつきます。国立国会図書館支部上野図書館の前身である帝国図書館が、当時はまだ湯島の聖堂内にあったので、そこへ行って調べてみることにしました。
ここが、いかにも治五郎らしいところです。相撲は柔術とは先祖を同じくする親戚のようなものですから、参考にするというのもわからないではありませんが、なんと西洋の格闘技を、しかも図書館で原書を読んで調べようなどというのは、この時代、治五郎以外のいったい誰が思いついたでしょうか。彼はまるで、学生や学者が論文を書く時のように、柔術の技を研究していったのです。幼い頃から漢学や英語を習うなど徹底した英才教育を受け、幅広い学問を身につけてきた治五郎ならではの発想と言えましょう。
作家の夢枕獏氏は、講道館柔道の草創期を描いた小説『東天の獅子』の中で、柔術に対する治五郎の取り組み方を次のように表現しています。

「幼い時から受けていた知的な訓練と方法論が、そのまま柔術を理解してゆく時の、治五郎のやり方となっていたのである。」そして、「学問に対するのと同等の知的探求心をもって、治五郎は柔術に関心を持ち、柔術を探求してゆくのである。」

治五郎の中では学問をすることも、柔術の修行をすることも、まったく同じプロセスをたどってなされていたのかもしれません。そんな探求の結果、治五郎はついに、ある本からこれはという手を見出しました。彼は万感の思いを込めて書き遺しています。

「それは今から考えると、肩車の変態であるが、それがよかろうと思って、学校で友達をつかまえてやって見ると美事にかかる。それで、道場に出て青木にかけて見てもよくかかる、そこで、いよいよ自信が出来たから或る時意を決して福島にそれを試みた所が、美ん事かかって、大きなからだをうまく投げ倒すことが出来た。その時の愉快さというものは、実になんともいえなかった。これはふだんどうしても勝てなかった福島に勝てたということの愉快ばかりでなく、久しきにわたって努力の成果を見たという満足であったのだ。」(『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』)

こうして治五郎は、自分で自分をほめてあげたくなるような成果をあげることができたのです。ちなみに、この時治五郎がヒントを得た書物の最有力候補には、1674年にアムステルダムで出版されたオランダ式レスリング『ボルステル』の教本が挙げられています(山田實著『yawara 知られざる日本柔術の世界』)。

治五郎が苦心惨憺の末、ようやく勝つことができた福島ですが、その最期は真に壮絶なものでした。彼は先に書いた通り日本橋の顔役で多くの子分がいましたが、祭礼で、その子分が他のグループの者からなぐられる事件が起きました。彼は早速そのしかえしに出向き、多勢の相手を片っ端から打ち倒しました。しかしそれが大事になり、敵方が復讐をしかけてくるといった事態に発展し、町内を騒がす状況に立ち至ってしまいます。福島はこのことにひどく責任を感じて日夜苦悶し、ついに心を病んでしまいました。
そしてある時、どこかへ参詣に行くといって家を出て行ったのですが、挙動がおかしいので家人がひそかに人に尾行させました。すると、福島は多摩川の堤へ行き、いきなり川の中へ下りて行ったのです。そしてなんと、大きな石に頭を叩きつけて、自殺してしまいました。尾行者は驚いて駆けつけたのですが、あまりに突然のことで間に合わなかったということです。福島兼吉は、乱暴者ではあっても、正義感に溢れ、責任感の強い人だったのでしょう。なんとも痛ましい人生の終幕でした。

治五郎が天神真楊流に入門して2年後、師の福田八之助が亡くなり、治五郎は福田の師である磯正智の門下となりました。その時福島も共に磯道場に入門していますが、そこではあまり稽古に出席しなかったので、治五郎ともしだいに疎遠になっていったと思われます。
福島の非業の最期を治五郎が知っていたのかどうか─おそらく知ってはいたでしょうが、そのことについて彼が語った記録は残されていません。あるいは、衝撃のあまり何も語ることができなかったのかもしれませんが、生涯忘れえぬ体験をもたらしたこの愛すべき男の死を、治五郎は心から惜しんだに違いありません。



- 嘉納治五郎の柔術修行(3) ─ 強力・福島兼吉を倒せ!! - ひろむしの知りたがり日記 (via petapeta)
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