チラシの裏の覚書。

個人的なナレッジノートです.φ(..)

"イエルサレム講演(二) スーザン・ソンタグ 自分がじかに広い知識をもっていない問題について、公的な場で意見を述べるのは、どこか鼻持ちならないところがあります。もしもわたしが知らないことや、急いで知識を..."

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イエルサレム講演(二)
スーザン・ソンタグ

自分がじかに広い知識をもっていない問題について、公的な場で意見を述べるのは、どこか鼻持ちならないところがあります。もしもわたしが知らないことや、急いで知識を集めたことについて意見を述べるとすれば、それは意見を売ることを商売にするようなものでしょう。

わたしはこれを名誉の問題として語っているのです。文学の名誉の問題として。個人の声に発言させるプロジェクトとして。本格的な作家や、文学の創造的な書き手は、たんにマスメディアとは「違う」意見を述べるだけでは不十分です。トークショーのだらだらとした通俗的な見解とは対立した意見が必要なのです。

文学とは、二五〇〇年の長きにわたって行われてきた偉大な営みであり、文学には叡智がそなわっているのだとすれば(わたしはそのことを信じていますし、そこにこそ文学の重要性があると考える者ですが)、文学はわたしたちのプライベートな運命や共同体としての多数性と矛盾を示すことによって、こうした偉大な営みとなるのです。文学は、わたしたちがもっとも大切に考える価値の間にも、対立があること、そして時には解きがたい解決があることを思い出させてくれます(これが悲劇の意味するところです)。文学はわたしたちに「なにか別のこと」を思い出させてくれるのです。

文学の叡智とは、たんなる意見をもつこととは正反対のことです。ヘンリー・ジェームズは「なにかについて、これが最後の言葉だというようなものはない」と言ったことがあります。尋ねられて意見を述べるということは、それが適切な意見だとしても、小説家や詩人がやっている最善の仕事、省察を深め、複雑さを感受するという仕事を安っぽいものにしてしまいます。

わたしたちに意見を述べさせるのは、有名人や政治家たちに任せておきましょう。作家であることと、公的な意見を述べる声であることの両方を遂行することに意味があるとすれは、作家は自分の意見や判断を作り上げることは重大な責任を伴うものだということを肝に銘ずるべきでしょう。

意見については別の問題があります。意見はみずから運動する結果をもたらすということです。作家はわたしたちを揺るがし、自由に立ち上がらせるべきなのです。共感と新しい関心を大きな〈街路〉を開くべきなのです。わたしたちが現在とは違った人間に、もっともまし人間になる可能性があるかもしれないことを思い出させるべきなのです。

ニューマン枢機卿はこう言ったことがあります。「天上の世界では別だろうが、われわれの世界では、生きるということは変わるということであり、完璧であるということは、しばしば変わってきたということなのだ」。

わたしはイエルサレム賞を受賞したことに感謝しています。わたしはこの賞を、文学の営みに真剣に取り組んでいるすべての人々の名誉のために受け取ります。単独者としての声と、真理の複数性で作り上げられた文学の創造のために苦闘しているイスラエルとパレスチナのすべての作家と読者を称えて、この賞を受け取ります。わたしは傷つき、怯えているコミュニティの平和と和解の名において、この賞を受け取ります。

平和が必要です。譲歩と新しい取決めが必要です。ステレオタイプをやめることが必要です。対話を続けることが必要です。わたしは国際的なブックフェアが後援している国際的なこの賞を、国際的な文壇の名誉を称える出来事として、頂戴いたします。



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「ソンタグの本は売ってはいけない」は我が家のきまり

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すばらしい決まりだ。

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